続・となりの詩人妻

関西を中心に活動中。朗読する詩人・河野宏子のブログです。

砂溶け

f:id:kohnohiroko:20190722101808j:plain

昨夜は久しぶりの「ことぶき!」でした。

ご来場、ご参加ありがとうございます。

 

(今回長いです。大したことは書いてませんので暇でたまらん人だけどうぞ)

 

 六月上旬からずーっと時間が止まってるような感覚だった。twitterは頻繁にしていたけれどブログを書く気には全くなれず、詩も見せられるものは少なく、手書きの日記ばかりページが進み、自分の周りだけ空気が砂なんじゃないか、空気だけじゃなくて時間も砂なんじゃないか、といった様子でずっしりと身も心も固められてしまっていた。感情は時間といっしょに過去へ過去へと流れていくものなのだと思い知った。時間が過ぎてくれないと感情も過去に行かない。助けられることも死んでしまうこともなく、ずっと溺れ続ける感覚。でも昨夜久しぶりに詩を朗読したら、やっと周りの砂がぐずぐずと溶けてくれた気がする。涙がちゃんと出たからかもしれない。息をするとまだ胸の真ん中に、チキチキボーンぐらいの骨が横向きに支えていて、きつく息を吐くとぽきん、と折れる気配がする。要はまだ悲しい。

 

 六月から今月にかけては詩人らしいことをそんなにしなかった。生活のための労働時間以外はただひたすら角瓶をソーダで割って飲んだり筋トレをしたり韓国映画を観ていた。いつの間にか一つ歳をとり、ケーキの予約もご馳走の準備も自分でするのが馬鹿馬鹿しくって雑に過ごしてしまった。映画『渇き』が好きすぎてDVDを購入し”ハッピーバースデー”のシーンを繰り返し観ていた。ベッドシーンも好きすぎて何度観たかわからない。この映画の音楽も血の中に溶かしてしまいたいぐらい好きだ。

 

 頭の中から言葉を追い出してしまえる瞬間がとても好きなくせに、いつも言葉で溢れ返らせている。クローゼットはパンパンでもう洋服が入らないのに新しく買う服のことを考えてしまうのに似てる。いつでもいっぱいいっぱいでそれがふつう。この数日は「エロ」と「エロス」と「ポルノ」の手触りの違いについて考えてる。ポルノのワードを冠した写真展に行ったからなのだと思う。詩を書くとき以外でも、言葉の手触りについて比べたり定義づけたりするのはもう癖のようになってしまっている。辞書で調べるのは納得いくまで言葉を観察した後でしかしない。先に知ると観察に先入観が入るから勿体無い。「ポルノ」は「エロス」に比べてずっと商業的な側面を帯びている。「エロ」はポップで裾野が広い。広すぎて追えない、ファストファッションみたいだ。「エロス」は性的なものに限定されない、性というより生の根元に近い感じがする。商業的に消費されないもの。聖とか邪とか分けられる以前のもの。そして仮に消費されたとしてもまた湧いてくるもの。だとすると件の写真展がポルノ、と題されていたのをどう解釈しようか。まだ考えてる。

 

 七月になって息子はお泊まり保育に行ったし、下の前歯が抜けたし、プールに顔をつけられるようになった。近いうちにランドセルを買いに行かなくてはいけない。卒園式の後に謝恩会をすることになって、連絡係をすることになった。クラスでひとりっ子は我が家だけという事実に今更気づいて小ぢんまりした崖から後ろ向きに水に落っこちるぐらいの動揺。そうか、悲しみに浸っていられたのはわたしがひとりしか子を産まずさして労働もせず砂に埋もれてじっとしている暇で退屈な存在だったからなのか。そろそろ梅雨も明けるから、溶けた砂を洗い流す。詩人は詩人の仕事をする。わたしは、社交辞令を真に受ける間抜けな自分が嫌いではありません。

 

 

f:id:kohnohiroko:20190722101822j:image